暁月のフィナーレ、感想記事みっつめ。
シナリオ感想の中で語り切れなかったことなどを。
「FINAL FANTASY XIV」
追加パッチ「暁月のフィナーレ」(Win)
記事中のスクショや引用した台詞は © Square Enix です。
これまでの感想記事はこちら↓
「アモン」「ヘルメス」「ファダニエル」
アモンとヘルメスは、やっぱり別の存在だよな、と自分は思っています。
ヘルメスの話は、シナリオ感想の中で結構できたのですが、アモンは色々と入り混じっていてちょっと全体の流れの中では書きにくかったので、ここでまとめます。
アモンという人は、うーん……。
ザンデ陛下のことは、好きだったんだよね、どう考えても。
敬愛、憐憫……うまい言葉が思いつかないので、「好き」という曖昧な言葉を使ってしまいますが。
覇道を極め、退廃したアラグ帝国を建て直した、その陛下であっても、何もかもが無なのだと言った。
『何を得て 何を築けど やがては終わる』
『生きるのはただ 無に至る道程でしかないのだろう』
ゾットの塔あたりでの、このアモンのモノローグ。
これはつまり、絶望をしている、んだよなあ……とプレイしながら思っていました。
例えばザンデが、生を楽しみ、現在の覇道を心から楽しむ人であれば、きっとアモンはこうはならなかった。(征服される側からすると、楽しまれても迷惑なんだけど…)
でも蘇ったザンデ、魅力的な君主は、一度死んだからこそ「全ては無である」と厭世的だった。
アモンの絶望って、ここが端緒な気がするんですよね。
イルサバード派遣団の手前のムービーで、アモンがゼノスに「憎らしいやら、妬ましいやら」って言ってたじゃないですか。
ゼノスの世界に熱をもたらしたのはヒカセンだったけど、アモンにとってはそれがザンデだったんじゃないかなと思うんです。
でも、ザンデは死を思い、無を思う人だったから……だから、妬ましかったのかなって。
ぶっちゃけアモンってだいぶヒカセンのこと嫌いだと思うんですけど。
(一方、ヘルメスはヒカセンのことを割と好いてくれていた!)
あれってゼノス・ヒカセンの関係性への妬ましさがあるんだろうな。
とか勝手に想像している。
あと、同じムービーシーンで、もうひとつ気になることを言ってましたね。
アモンだった頃、同じ夢を何度も見ていた。
ある日、それが真実と繋がってしまった。
これ、プレイしてる時は「何の夢?」って思ってたんですが。
ヘルメスがメーティオンのもたらす終焉を許容した話だったんですねぇ。
全ては結局無に帰す、というアモンの絶望と、ファダニエルがヘルメスとして生きていた頃の哀しみが、リンクしたんだな……。
「……あの夢が、間もなく世界にとっても真実になる」
「それだけは、ええ、少し愉しいかなと」
この台詞はヘルメスからは絶対出てこないものなので、彼はやはりアモンなのだよなあ、とも思います。
「この結末を、遥か昔、自分と同じ魂を宿して生きた「あの男」は嘆くだろうか」
「だとしても、私は到底、人が続いていくべきものだとは思えなかった」
「一万年以上の昔、彼が掛けた問いに、そう答えを返す」
「それが誤りだと言うのなら、こののち来たる災厄に、お前たちの答えを示すがいい……ハイデリンよ」
「ご覧ください、ザンデ陛下。これより、あらゆるものが無に還ります」
「私も、星も、すべての命が……あなたと同じに」
こちらはゾディアーク討滅後のモノローグ。
……うん。そうなんだよな。
アモンのやってたことって、結局、ザンデに捧げる壮大な心中に思えるんだよな……。
はた迷惑が過ぎるし、自分が世界を見限ったからといって他者も巻き込もうとするな、自他の境界をちゃんと明確にしなさい、とは思うのだけど。
そのザンデへの思いは、拾い上げて背負っていきたいなと思います。
それでいて、「お前たちの答えを示すがいい」とも言っていた。
人という種が生きるに値するのか、試していた。
パーフェクトキャロットとかのあたりで、グラハが言うんですよね。
アモンが宇宙進出を推し進めたのは、ザンデに新たな可能性と目標を与えるためだった、って。
「ヘルメスもアモンもさ、人の生き方を忌みながら、だけど完全に見捨てることもできなかったように思えるんだ」
「だから何度も、遠い星に、希望を求めて手を伸ばした。それで人が変わることを願って……幸せの可能性を探して……」
ため息しか出ないね。
人に試練を与えて、どこかで、乗り越えることも望んでいた、ファダニエル達を思うと。
終わりを願いながら、心のどこかで、生への希望が勝つことを望んでいる……。
たくさんの絶望を越えて、人はそれでも生きることを諦めずにいられるのか……。
それができるのであれば、それでも良い、とは思っていたんだよね。
まあ、特にアモンのは相当迷惑な試し行動だけどね!
ところで、暁月クリア後に縁あってサブキャラでクリタワもっかい行ったんです。
ザンデがシルクスで中ボス的に倒されちゃうの、今考えるとめちゃくちゃ空恐ろしいな。
生き返ったザンデは第四霊災では実は死んでなくて、二度目の死をもたらしたのは、ヒカセンやノアの一行だった。
いや、空恐ろしいし、これを知ったファダニエルどう思ったの?って震えが来た。
あと、ザンデ陛下が魔族と契約して世界を平らげようとしてたやつ。
やっぱりザンデの原動力って絶望だから、その絶望を世界に広げて一緒に自滅しようとしてた感があります。
いや本当に、征服される側からしたら迷惑なんだけども!
暁月のファダニエル・アモン周りはおそらく後付け設定で、クリタワ実装当時はこうなる予定はなかったんじゃないかなとは思いますが、それをもってクリタワ見返すのも味がありました。
アシエン・エメトセルク
漆黒におけるアシエン・エメトセルクのことも、今一度、考えておきたい。
未来について話をした後のムービーで、エメトセルクが言っていました。
「同胞たちがゾディアークに命を捧げたとして、星のためであったのなら、人として誇るべきことだ」
「だというのに……私が、在りし日の街を模しただと? そんなものは、彼らの行いへの冒涜だろう」
「お前をそこに招き入れた理由も、まったく理解ができない! 自ら計画失敗の要因を作ったようなものじゃないか」
この、過去のエメトセルク本人による言葉が、アシエン・エメトセルクの行いを象徴していたように思います。
幻影のアーモロートは、アシエン・エメトセルクの感傷そのもの、なんだよな……。
そして、ヒカセンを招き入れたのは、確かにエメトセルク自身だったんですよね。
化け物に成り果てたなら、最後にとどめを刺してやる、という口ぶりではあったけども。
かつての友人の成れの果てに、引導を渡してやる。
もちろん、そのために招き入れたのだろうけども。
でも、どこかで…どこかで……。
エメトセルクは、終わりを望んでいたのだろうか。
漆黒でのエメトセルクは、きっと、アゼムが思い出してくれることを望んでいた。
その一方で「これ」はアゼムではなくて、ヒカセンなのだと、分かってもいたのでしょう。
「だが……自分からそれを投げ出すような真似を、私がすると?」
「投げ出した」というわけでは、なくてだな……。
まあ、ここではこう言っていたけど、過去のエメトセルクも、未来の自分自身のことを理解はしている。
アシエン・エメトセルクは、彼らに未来を「託した」。
ヴェーネスは……ちょっと超越してるところがあるというか。
「人」という種の保存を優先した感があるんですよね。
それに対して、エメトセルクは結局、自分の世界(に連なる特定の人々)を取り戻したかったように思える。
ヒカセンがエルピスから未来に戻るところのムービーで、エメトセルクとヒュトロダエウスが映るじゃないですか。
ヒュトロダエウスは、ゾディアーク召喚の贄となった。
エメトセルクはそれを見送るしかなかった。
その犠牲は「星のために行われる、人として誇るべきこと」だったから。
でも、エメトセルクは絶対に後悔していた。
本来は失われるはずではなかったものが、失われてしまった、って強く思っていた。
……過去のエメトセルクには、ヘルメスの感傷が理解できませんでした。
でも、身近なものを突然奪われて、それこそ「耐えがたい痛み」を思い知ったのだと思う。
だからこそ、アシエンとして時を越え続けた。
そのうえで。
エメトセルクが重荷を手放せたのって、ヒカセンがアゼムだからだったんじゃないのか、とも思います。
これまで弱すぎる人間達を俯瞰して眺めてきて。
最後に、アゼムの成れの果てが、それでも頑張って頑張って立ち向かってきた。
もう、過ぎ去ったあの日々は戻らないのだと…そこでようやく認めることができた。
……懐かしくも新しい「友人だった別の何か」に敗北して、星に還ることを、やっと自分に許すことができた。
そうだったんじゃないかな、って……。
でも、哀れむなと彼自身が言っていたので、哀れむことはしない。
ただ、託された生を抱えていくしかない……。
クリアして約10日経って、考えたこと
暁月、とても満足してプレイをしたのですが。
ほんの少しだけ、気持ちが取り残されたように感じているところもあって。
これからも生きていく人は、あれでいいんです。
絶望と希望の両方を抱いて、生きていく。
それが正しい。それがあるべき姿だと思う。
ただ……生きられず、無念な終わりを迎えた人達はいるのだよな、という思いが拭えない。
ニーズヘッグを初めとした、憎しみ合った竜や人。
テンパードと化して殺されたもの。アーモロートの古代人。
終末で獣に変じていった多くの名もなき人々。
そのことをどう噛み砕けばいいのかが……一方で分からないままなんです。
結局のところ、生存競争として、人は争うしかないわけで。
古代人のために今の人類は死ねないし、ガレマール帝国のために属国の民は死ねない。
竜と人の融和を目指す時に、あくまで人の滅びを求める竜は、討つしかない。
終焉を謳うもの、先ゆく星々も、生きるためには打ち倒すしかない。
生きることを願う以上、こちらに滅びをもたらす存在とは、戦わなくてはならない。
そういう相手であっても対話せよ、相手の立場も顧みろ、というのが、漆黒でエメトセルクやエリディブスが言っていたことでした。
勝利して生きていく側は、自分達の生のために打ち倒したものがあることを、自覚して生きていかなければならない。
……これはまあ、これで良いし、納得はしています。
でも、そうした生存競争以外にも。
無念や絶望、どうしようもない終わりはやってくる。
暁月は「それでも歓びのために生きていくのだ」という、生への賛歌だった。
とても強い、強い、生への賛歌。
うん、生きていく人はそうすべきだと思うよ。
だけど、理不尽に奪われて終わりを迎えてしまったもの達の無念は…どこに行けばいいんだろう?
満たされず、果たせずに死んだもの達はどうすればいい?
どこにも行けず、救われないの?
いくら、星に還ったんだよって、言われても……。
ヒカセン達の戦いは、考えてみると割と受動的だったんですよね。
自分達を滅ぼそうとするものがいるから、抗い戦う。
でもヴェーネスの始めた、ゾディアークとの戦いは、能動的だった。
失くしたものを許容できずに取り戻そうとした、ゾディアーク側の人々に対して。
ヴェーネス=ハイデリンは、そちらの道では人は終末を生き残れないから、と、別の道に進むために、ゾディアークを分割した。
ゾディアークとハイデリンは、どちらも、多くの生命の犠牲の上に立つ神だと思うのです。
ゾディアークは多くの生命を犠牲に、失われた人々を、世界を、蘇らせようとしていた。
ハイデリンは人を終末から救おうとしたけど、そのために、ゾディアーク側の人々を切り捨てたし、新生した世界でも、嘆き叫ぶ多くの命を犠牲にした。
だから、まあ結局のところ、似たりよったりかな。このふたつの蛮神は。
もちろん、未来を繋いでくれたのは、ハイデリンです。
ハイデリンが、人を信じて、見守り続けてくれたからこそ、終焉に打ち勝てたんです。
……うまく言えないけど。
多くの古代人やアシエンのように、失ったものを嘆いて立ち止まるのも、また人のひとつの側面なので、本当はそれも掬い上げたかったんだよなあ。
終わりたくない、と思いながら消えていったたくさんの生命達のことも、掬い上げたかった。
終焉を謳うもの=先ゆく星々との対決で、終わったもの達に生の希望を示す、という組み立てではあったのですけどね。
無念のままに終わったもの達も、また生まれてくる、きっと。
このシナリオは、言うなれば、生きたいもの達と、終わりたいもの達の対決に集約されていった。
だけどもうひとつ重要な要素として、生きたかったのに終わらされたもの達がいた。
別に終わりを求めたわけじゃなくて、生を望んでいた。
なのに終わらされたもの達の無念は、どこに行けば良いんだろう……とも考えてしまった。
こういうもやもやは、抱えていくべきものではあるので。
ヒカセンには頑張って、全部抱えていってもらいたいと願っています。
以上、暁月のフィナーレ、感想でした。
長かった!!
お疲れ様でした!!
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